地獄変 Hell Screen
思うに本作の主題は、「聖と俗の対立」です。「聖」は崇高なる芸術です。堀川の大殿様(以下「堀川」)は家臣にも庶民にも慕われる人格者として登場しますが、いつのまにか悪役のような役回りになってしまっています。これは良秀という芸術至上主義者にとっては、堀川はいくら大人物とあがめられていようが、俗な衆人のひとりに過ぎないからです。本作において堀川は、俗世間を象徴して良秀に対峙する存在です。
「地獄変」の制作を命じるのも、難しい注文をして高慢な良秀を困らせてみたいという実に俗な動機です。それに対して良秀は、「見たものでないと描けない」と言い出します。その要望に堀川はどう応じたか?良秀の最愛の娘を犠牲にすることを思いつくのです。俗世間に関心のない良秀が唯一気に掛け、可愛がっているのが娘です。娘は、芸術性の追及のみに生きる良秀と現実世界とをつなぐ唯一の存在といっていいでしょう。その娘と芸術とを、すなわち現世と芸術とを、堀川は秤に掛けて良秀に突きつけるのです。芸術の追及に没頭するあまり衆人を軽蔑する良秀を苦々しく思っていた堀川から良秀への、「貴様の芸術至上主義がどれほどのものか見せてみろ」という挑戦状なのです。
その対立はどのような結末を迎えたか。良秀は娘を殺した堀川をとがめることもなく、娘が焼き殺される様を食い入るように見つめ、その顔には恍惚すら浮かんでいるのです!これで作品を完成させられる、素晴らしい作品ができるという、芸術に生きる者の歓喜です。そして良秀は約束どおり「地獄変」を完成させるのです。
そこまでは確かに、芸術至上主義が良秀にとって何者にも勝っていました。しかしその直後、良秀は自ら命を絶ってしまいます。それは娘を失った悲しみゆえか、かけがえのない娘の命よりも作品の完成を優先させた自責の念ゆえかは定かではありません。しかしいずれにしても、良秀が徹頭徹尾芸術至上主義者であったなら自殺する理由は全くなかったのです。娘を失ったことで作品を完成させたにもかかわらず、娘を失った悲しみもしくは自責から命を絶つのは一見矛盾ですが、この矛盾は彼の芸術至上主義の不完全性を表しているのです。
一方の堀川は、完成した「地獄変」を前に「出かし居った」と膝を打ちます。芸術至上主義なるものを苦々しく思っていた堀川も、その芸術至上主義者の渾身の作品には、そして芸術を追及する精神の崇高さには敬服しない訳にはいかなかったのです。
芸術至上主義だけで生きていける人間はいないし、俗な精神だけで生きていける者もいません。そんなことを芥川は、しばしば芸術至上主義者と評される芥川は、伝えたかったのではないでしょうか。(2005年6月26日)
袈裟と盛遠 Kesa and Morito
人妻を奪った男と、男に身を任せた女。男はなぜ女を殺したのか。女はなぜ男に殺されたのか。平安時代末期を舞台にした、袈裟御前と遠藤盛遠の物語です。
2人はそれぞれ、独白しながらざわざわと揺れる自身の心の淵をのぞき込みます。そこにあるのは虚栄心、征服欲、責任転嫁、自己嫌悪…。人間の心の暗部を芥川の筆はえぐり出していきます。そして男は愛のもとに殺人を正当化し、女もまた愛のもとに死を正当化するのです。自己の内面と対峙することで、2人は真実にたどり着いたのか?異性への愛は、実は単なる自己愛に過ぎないのではないか?そう問い掛けられているような気がしてきます。(2009年10月9日)
枯野抄 Gleanings from a Withered Field
松尾芭蕉の臨終に立ち会った弟子たちの心中はこんな風だったかもしれない…という、芥川十八番の心理分析。
冷酷なまでに精確な、容赦ない心理分析は芥川の真骨頂!これは分析というよりももはや「解剖」と言ったほうがいいかもしれません。
「水を」と木節が言った瞬間にその場を走った緊張感と弛緩、そのことに木節と其角が同時に気づいてひやりとする、という一瞬の心の動きや、師匠の介抱に専念する去来が一方で、そんな自分に満足しているという描写にはもう「参りました!」という外ありません。芭蕉の死の床に漂う、交錯する様々な思いがつくり上げた緊張感が鮮やかに伝わってきます。芥川の小説には緊張感のあるものが多いように思いますが、その中でも本作の緊張感は秀逸。
「水に浮く葱の屑も、気のせゐか青い色が冷たくない」 「橋の擬宝珠に置く町の埃も、動かさない位、ひつそりと守つてゐる…」 「枕頭の香のかすかな匂を、擾す程の声も立てない」という表現もすごく上手いと思います。大好きな作品の一つ。
初出は 「新小説」1918(大正7)年10月。(2005年6月26日)
あの頃の自分の事 My Campus Life
自身の学生時代の思い出をつづったもの。大正7年[1918年]12月に書かれています。
「僕なんぞは無責任に、図書館の本を読まう位な了見で、大学にはいつてゐる」って何その余裕の発言!入りたくても入れない人が掃いて捨てるほどゐるは御存知ないか。ほんとにねー、困りますよね、天才は。
ろくに授業に出なかったり、教室で煙草を吸ったりと、東大生の芥川は結構不真面目。学校の勉強には興味がないものの創作には精を出していたようで、友人と「新思潮」発刊の打ち合わせをしたり文学の議論をしたりしています。
「マクベス」の講義をするロオレンス先生への評価は「その退屈さは人間以上だつた」。この表現、かっこいい!使いたい!芥川の人間分析の鋭敏さと、それを一分の隙もなく正確に表現する言語力には恐れ入ります。自分の事を「生来言語学的な頭脳に乏しい人間」と評していますが、貴方が言語学的な頭脳に乏しかったら他の人は一体どうなるのかと。謙遜やさんですねえ…。恐ろしく頭いいくせに。(2005年5月26日)