R o b e s p i e r r i s m e

 「独裁者」?

 「独裁者」…よく言われてます、これ。ロベスピエールをヒトラーやムッソリーニと並べて語る人もいるくらいです(注1)。ですが、1793年6月2日のジロンド派追放から翌94年7月27日の「テルミドールのクーデター」まで行われていたのは、議会勢力から言えば山岳派独裁であり、機構から言えば公安委員会の12名による独裁であって、ロベスピエールの個人独裁ではありません。

 こんなことを言うと、「表面上はそうでも、実質的にはロベスピエールの個人独裁だったじゃないか!」なんて声が右の耳から聞こえてきそうです。そこで問題になるのは、すべての権力がロベスピエールに集中していたのか、否か。

 この問題については、マルク・ブゥロワゾォ著「ロベスピエール」に詳しいのでそれを参照してみましょう。まず、公安委員会とは何をする委員会なのか。1793年12月4日に定められたところによれば、その役割は外交・軍事・一般行政です。要するに政府。そして、ロベスピエールが公安委員を務めていたのは93年7月27日から94年7月27日まで、きっかり1年間。この1年間に彼はいったい何をしていたのか!?

●ロベスピエールが署名した書類…542通(バレール、カルノーなどは数千の書類に署名している)  

→542通のうち、ロベスピエールが自ら作成したもの…205通(37%)

【205通の内訳】
  • 治安関係…75通(36%)
  • 地方との連絡…33通(16%)
  • 戦争・軍需関係…28通(14%)

さらに、公安委員会内での役割分担を見てみると…

  • 軍事…カルノー
  • 財政…カンボン
  • 公安委員会と議員の連絡…ビヨ・ヴァレンヌ、コロー・デルボワ、バレール
  • 一般監察局の指揮…サン・ジュスト(サン・ジュストが北部軍に配属されていた間、94年4月28日から6月30日までの約2ヶ月間はロベスピエールがその職を代行)

 上記のデータを見る限り、ロベスピエールが全権力を握っていたようにはとても見えません。しかも、公安委員が全員ロベスピエールの意のままに動く「部下」だったというなら彼の個人独裁とも言えるでしょうが、実際は公安委員会内にも派閥がありました。12名のうちでロベスピエールの仲間といえるのはサン・ジュストとクートン、わずか2名です。カンボンは右派ですし、コロー・デルボワやビヨ・ヴァレンヌなどの左派に至ってはテルミドール8日・9日にロベスピエールを糾弾してクーデターの成功に一役買っている始末。これのどこが個人独裁やねん、って感じですね(笑)。

 そもそも山岳派独裁とはジロンド派との対立に勝利した結果として生まれてきた体制であり、いわば状況の産物です。また、民衆がそれを支持したことも厳然たる事実です。確かにその体制は多くの犠牲者を出しましたが、のちの人々がそのためにロベスピエール1人をまるで悪魔かなにかのように非難するのは不当というものです。

注1:長谷川三千子 「民主主義とは何なのか」第2章 「…アテナイ市民たちが内心ひそかに恐れつつも、とうとうその実物を見ることはなしにすんだ本物の僭主 ― 「人間の内臓の一切れ」を味わって、狼と化した指導者 ― は、近代デモクラシーにおいて、あるいはロベスピエールとして、あるいはヒトラーとして出現してきたのではなかったか?」


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