R o b e s p i e r r i s m e

 ラ・ファイエットを語る。

 ラ・ファイエット
なかなか端正な顔立ちですね。

Marie - Joseph - Paul - Yves - Roch - Gilbert du Motier, Marquis de La Fayette
(マリー・ジョゼフ・ポール・イーヴ・ロッシュ・ジルベール・デュ・モティエ,マルキ・ド・ラ・ファイエット)

生:1757年9月6日
没:1834年5月20日

 軍人・政治家。侯爵。貴族ながら自由主義的な思想を持った。アメリカ独立戦争(1775〜1783)に飛び入り参加して活躍して「新大陸の英雄」とあだ名され、さらに本国でも活躍したので「両大陸の英雄」と呼ばれ民衆の人気者となった。 三部会(1789年5月)には第二身分代表として参加。バスティーユ陥落の翌日(1789年7月15日)には国民衛兵司令官に就任。「人権宣言」の起草者としても知られている。

 91年7月にはフイヤン・クラブの設立に際してその主力メンバーとなり、さらにはシャン・ド・マルスの虐殺事件で革命左派と完全に手を切った。同年9月に成立した1791年憲法の起草に当たっては、トマス・ジェファソンと夕食を挟んで6時間の討論をしたという。

 91年末から翌年初頭にかけて対外開戦を主張し、開戦を非とするロベスピエールと激しく対立した。これは彼の支持基盤が軍部にあり、開戦により軍部の発言力が増すことを意図したためだとされている。結局フランスは92年4月に対外戦争を開始したが、連戦連敗。これによりパリ市民は危機感を抱き、革命を守るために共和制を志向するようになっていく。これが8月10日事件への導火線となろうとは、ラ・ファイエットにとってはなんとも皮肉な結果であった。

 8月10日事件(1792年)で王制が停止されると、8月19日にオーストリアに亡命した。国王一家が幽閉されてから6日後、バルナーヴが逮捕された翌日のことだった。

 革命期の人物としては異例の御長寿で、1830年の七月革命でも国民衛兵軍司令官を務めた。このとき73歳というのだから驚きである。

 単にヒーローになりたかっただけで体系的な思想や確固とした信念は持っていなかったらしい。しかし彼は機を見るに敏であり、さらにパフォーマンスに長けていたことが彼の活躍を可能にした。ミラボーが贈呈した蔑称「道化のカエサル」は、そんなラ・ファイエットの本質を端的に言い表している。単なる「ええかっこしいのスタンドプレー野郎」と言ってしまうと、元も子もないのだが。

 偶然だろうが、ラ・ファイエットの活躍は7月に関係したものが多い。彼が貢献したアメリカ合衆国の独立は1783年7月4日、国民衛兵司令官に就任したのが89年7月15日、フイヤン派の結成は91年7月、そして七月革命。そういえばJulyという月名はユリウス・カエサルに由来したものだが…そこまで追及するのは気の毒か。


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